2013年1月2日水曜日

どうして多読するか?

これまで、いろんな現場を渡り歩いてきて、どちらかというと自分は技術系の本を割と読んでいる方ではないかと思うに至った。あえて多読派と寡読派に分けるとすれば、どうやら前者に入るのではなかろうかと思うので、ここでちょっと見解をまとめておく。

なぜ多読するか?

もちろんIT技術の話題に触れてるのが好きだからと言うのもあるけど、仕事に関係があるからというのが、やっぱり第一義という事になる。でなければ、ジャンル的にプログラミング・パズル系の本がもっと多くなるし、逆に、オブジェクト指向やアジャイルや Java等の Algol系言語の本はあまり読まなくなると思う。

じゃあ、どんな風に多読が仕事と関係するか。

生産性を上げてかっちょいいコードを書いてチームの中で一目置かれるため---なんかでは全然ない。ましてや他人を論破したり知識量で威圧するための理論武装でもない。

むしろ逆で、ある長所をもっているのがチームの中で自分だけという状況を極力避けるためだったり、また議論の場で同僚の顔を潰すことなく一定のデリカシーを保持するためだったりする。

そもそも自分さえちゃんとできていれば良いという態度は、ある程度の職歴を経たプログラマとしてはちょっと物足りないし(それに自分だけちゃんとするためだけの最小限の読書量は、だいぶ越えてるはず)、良いプラクティスやスタイルを少しでも周りに波及させるところまで含めて仕事なのだと、個人的には思ってたりする(別に頼まれてはいないけど)。

つうわけで、自分が良かれと認識する開発習慣を広めたり、そのために必要な議論を文明人らしいものにするために、いろいろ本を読んでるというのが自分の場合は当てはまる。

例えば、他人のプラクティスやコーディング習慣を改めてもらいたい場面で、読書が足りない人はどう言うか。

「それ時代遅れですね。今どき、そういうの聞いたこと無い。」
「自分はそういうのやらないな。つか普通、誰もやらないと思う。」
「そういうのオブジェクト指向っぽくないから、自分嫌いっす。」

定義の曖昧な、「みんな」とか「普通」とかが多くなって、主観的な価値判断が随所に織り込まれる。で、相手も主観で応酬してくるから、収集がつかない。多読派の立場で見るとどっちもどっちで、客観性を欠いたアホとアホの争いでしかない。

一方、多読派はどう言うか。

「おっしゃる事に一理あると私も思うし、○○氏も2001年の著作『△△』で同じ事を述べてましたね。ただ、それとは別の意見を◎◎氏が著作『▲▲』で述べていて、ホニャホニャフレームワークの開発者の●●氏もそれを支持していたりして、2000年代後半以降はこっちが主流のように見えます。一連の議論について詳細に検討している面白い本があるので、なんなら貸しましょうか?」

とか言える。まあこんなにクドクドしく言わなくても「『▲▲』でアンチパターンとして既に批判されてますね」で終わる事もある。とにかく無駄な主観の応酬になりにくい。

もちろんサジ加減一つで相手に恥をかかせる事もできるけど、多読派は断じてそういう事やらない。なぜなら、そうした行動に見られるデリカシーの欠如の恥ずかしさをさておいたとしても、多読派は1998年の『Anti Patterns』で「Intellectual Violence」として警告されている事を、とっくの昔に読んで既に知っているから。

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いろいろ書いたけど、自分の場合は案件ごとに雇われていろんな現場にお邪魔させてもらってるだけなので、「議論は良いから、一番偉い俺の主観的価値判断と美意識に黙って従いなさい。」みたいにしにくい立場だからってのもある。

まあ、自分がそんな権限を持ったとしても、そんなやり方はしないけど。だってアホみたいだからね。

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